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ダムめぐり/「箱島ダム」を知りませんか?/その2

記憶喪失気味のダム

明治から昭和戦後期あたりまでに作られた土木・建築物で現存する物について「近代化遺産」と呼ばれている。そしてここ十数年、この「近代化遺産」と言う物を見直そうという機運が世の中的に高まってきているそうで、「近代化遺産」とタイトルについた書籍が多数出版されていたりする。

私個人としても、この時期に作られた土木構造物は特に見て面白いので、意識的にそういったダムを中心に旅行のプランを考えたりしているのだが、そのときに参考にしているのが土木学会の発行した「日本の近代土木遺産」と群馬県建設技術センターから発行された「ぐんまの土木遺産」の2冊の本である。

それで、今回の「箱島ダム」なのだが、この2冊には載っていない。おそらく掲載されていたら(特に「ぐんまの土木遺産」は大きな写真入りで掲載されているので)もっと早く見学に行っただろう。ともかく、持ち駒ではなんとも出来ないので、会社帰りに寄り道して群馬県立図書館から資料を借りてきた。

まず、名前から役立ちそうな「群馬の水力発電史(田村民男著)」である。昭和54年に発行された本書は名前の通り群馬初の電力会社から現在に至る群馬の水力発電に関して詳しく説明しているようである(関係ありそうな所しかまだ見てません。ちゃんと読むと今後相当役立ちそうなので一区切りついたら読もうと思ってます)。

それで、読み始めてから気づいたのだが、あのダムの正式名称って実はまだ分からないのだ。とりあえず発電所の名前は看板で「箱島発電所」だと分かっているのだが、正式名称はどこにも載っていない。しょうがないので箱島と名前の付くページを調べてみるとP.28に「箱島水力電気から引き継いだ(旧)箱島発電所」という見出しがあり、箱島発電所の変遷について半ページ程度割いて書かれていた。

本文によれば、明治36年に設立された「高崎水力電気会社」が需要の増加に対応するため別会社として「箱島水力電気会社」を明治43年1月に資本金10万円で設立、その後2万円増資し「箱島発電所」を43年2月起工・同年9月に竣工して10月5日に営業運転開始としたと記されている。

その後会社の合併で発電所の名前は「箱島第1発電所」から「東第1発電所」と変わり、昭和31年4月25日に廃止となったと続いている。40年ほど稼働し、役目を終えてから50年立っている事になる。また、廃止後、発電所で使用していたペルトン水車は須田貝発電所の資料館に陳列されていると書かれている。ってことは見てるじゃん、自分。

次に東京電力の高崎支店発行の「ぐんまの電力史」という本である。この本でも箱島発電所についてふれられているのはやっぱり半ページで、P,77に前書と同様の経緯と下記の事が書かれていた。

発電所は総延長410メートルの鉄管で水を流下させてペルトン水車を回しドイツ・フォイト社の発電機(出力300kw1基)で発電2万5000ボルトで送電する物であった。

最初見学したとき、駐車場のそばの台車がいっぱい吊してある所に水道設備があったので「この場所に発電所があったのかなぁ…」なんてぼーっと思っていたのだが、400メートルの長さの水圧鉄管だとあまりにも近すぎる(水道設備からダムまではせいぜい100m位だと思う)。おまけに、上記の記事と一緒に箱島発電所の写真が掲載されているのだが、畑か田んぼの真ん中に立っているのだ。これは少なくとも山を下りたところにあったに違いない。

ここまで資料を見てきて、発電所に関しての記述はあるがダムに関してはほとんどふれられていない。はたしてこれが、あのダムが取り立てて記述するほどの事でもないありふれたものだったと言うことなのだろうか。釈然としないまま次の資料を見る。

3つ目の資料が平成2年度に県の教育委員会がまとめた「群馬県近代化遺産総覧」という資料である。この資料は各地の教育委員会や関係者に依頼して調査した物を表形式でひたすらまとめた物であるが、吾妻郡東村の項目を見るとこのように書かれている。(以下の表同資料の引用)

番号 名称 住所 分類 種類 構造 年代 沿革
4001 ロックフィルダム 大字箱島 土木 ダム 1910 発電所の廃止とともにダムとしての使命は終わる
4002 水圧鉄管路 大字箱島池内 土木 水路 1910 昭和31年4月まで使用 建物などは撤去されている

この資料から(少なくとも平成2年までは)ダムはおろか、水圧鉄管まで残っていたと言うことになる。水圧鉄管の沿革の項にある「建物などは撤去されている」というのは発電所のことだと思うが、ひょっとしたらその跡くらいは見られるかもしれない。これは現地に行かねば、ということで再び箱島へ行こうと決めた。(2005/04/06)